痛みの存在
痛みについて考えるとき、私自身の苦い経験を思い出します。老人病院に勤めていたとき、私は主に入院患者のリハビリを担当していたのですが、ナースよりも患者さんと接する時間は長く、介護職のメンバーよりも医学的な知識があったので、患者さんと他の医療スタッフとの橋渡し的な存在でもありました。あるとき、痴呆のおばあちゃんがお腹の痛みを訴えていました。私が知る前に、介護職の子が知り、ナースやドクターにも連絡がいっていましたから、その日のドクターが診察したはずです。ドクターが診察したときには、たぶん痛みを訴えなかったのでしょう。特に問題なしと言う申し送りがありました。でも、その後も時々、その患者さんは痛みを訴えます。私ももちろん凄く気になり、「どこが痛いの?」「何をすると痛いの?」などと聞いていたのですが、なにせ痴呆が激しくて、言っていることが要領を得ません。一番患者さんと長く接していて、患者さんをよくわかっている介護の子たちに聞いても、食欲は相変わらずあるし、他に意識がいっているときは痛みを訴えないとのこと。いつの間にか、私を含めみんなの認識は、痴呆のために痛みがあると思い込んでいるのだろう。痛みを訴えたら、何か他のことに気を逸らせておけばいいだろう。そんな認識になっていたのです。数日後に、その患者さんは熱を出しました。そして血尿。腎結石か尿路結石でした。私はこのとき、どれほど自分が情けなかったか。涙が出るほど、患者さんに申し訳なく思いました。それは、患者さんが訴える痛みに、きちんとした理由があったからではありません。患者さんが痛みを訴えるなら、誰がなんと言おうと、痛みの原因が医学的に存在しようがしなかろうが、そこに痛みは存在するのだということを、自分はわかっているつもりでした。でも、わかったつもりなだけで、本当にはわかっていなかったんです。知っていたのに、周囲の雰囲気に簡単に流されてしまうなんて、知らないより最悪です。たとえ自分が治してあげることは出来なくても、患者さんの訴えに、もっと真剣に向き合うべきでした。痴呆だから仕方がないではなく、適切な言葉で訴えられない人こそ、余計に周囲は真剣にならなければいけないんですよね。それは痛みだけに限ったことではありません。本人が苦痛を感じるのなら、そこには「気のせい」とか、「甘え」とか、「考えすぎ」とかそんな他人の先入観とは別の、確かな苦痛が存在するんです。そして、それには必ず、苦痛を引き起こす理由があるのです。大好きな患者さんの一人でした。患者さんには申し訳ありませんが、あの経験は、私に大切なことを教えてくれました。
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