身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価
前回からの続きです。この記事のタイトル<身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価>は、精神神経免疫学の見地から書かれた、いわば身体の声(悲鳴とも言えるようなもの)を、心の声に翻訳するための本です。私が、心の病(うつや強迫性障害、パニック障害など)や、慢性疼痛(腰痛、生理痛、頭痛、線維筋痛症など)、アレルギー性の疾患(喘息、アトピー、膠原病などの自己免疫疾患)や、原因不明の不定愁訴(頭痛、めまい、首や背中の耐えられない違和感など)を持つ患者さんから感じるのと同様なことを、医師である著者は、自分の患者へのインタビューや有名人の伝記などを通して、主に、ALS(筋萎縮性側索硬化症)、多発性硬化症などの膠原病、潰瘍性大腸炎、ガン、アルツハイマー病などの患者を例に挙げ、具体的に説明してくれています。この本の中には、著者自身の実感、患者へのインタビューでわかった患者の性格、あるいは物事への反応の仕方が書かれていますが、とても興味深い内容です。例えば、ALSの患者さんは、凄く「感じが良い」人ばかりである。検査技師の「この人はあんまり感じが良くないからALSではないと思う」という予想は7-8割の確率で当たっている。自分の身体が、起き上がるのさえ困難な状況(ガンの手術直後とか、全身の関節の炎症で入院したばかりとか)であっても、少なくとも本人よりはずっと健康で我が儘なだけの家族や、周囲の人間のために働いてしまう。ようするに、どんな状況であっても、他者に対してノーと言えない患者が、これらの病気になりやすい傾向がある。本人がノーと言えない代わりに、身体がノーと言う。これが本の題名の意味するところです。その他にも、権威のある研究施設での実験結果。例えば、子供時代の幸福感と、その後の人生でのガンなどへの罹患率に優位な関連が確認されたこと。修道院での研究で、感情の表現能力の高い人の方が病気になりにくい傾向があること。医学生が、試験というストレスに晒されたとき、一様に免疫力が低下するが、本人を支えてくれるような人の有無により、低下率やその後の回復率に優位な差異があること。動物実験により、毎日なでられていたウサギやラットが、何もされなかった対照群よりも免疫力が高いことなど、豊富な事例がその説得力を強めています。この本が明らかにしたのは、ストレスがあると病気になりやすいというような単純なものではなく、子供時代の体験や、家庭環境により身につけた反応の仕方が、本人を苦しめ続け、免疫力の低下を招き、病気を誘発するという事実で、私が心の病に苦しむ人たちに感じていた発症の原因とほとんど同じものです。いま目の前にあるストレス自体の問題ではありません。二人の人が同じように、失業や失恋や失敗に見舞われたとしても、そのストレスの度合いは、その人の物事に対する対処の仕方や、支えてくれる人がいるかどうかで、天と地ほどに異なった体験となるのです。だから、現在のストレスが過ぎ去ったように見えても、ある人にとっては終わってしまった経験となり、別の人にとってはいつまでも血を流し続ける傷口となるのです。いま思いつくものを簡単にまとめてみると、まず、最も大きなものが、子供時代の感情の抑圧です。親が精神的に成熟していない、あるいは生活の困難から、子供の気持ちにより添うだけの心の余裕がなかったために、子供が自分の感情を抑えるしかなかった場合。親が精神的に不安定で、自分の上手くいかないことを子供のせいにして、怒鳴り散らしていたような場合。親が支配的で、何の疑いもなく、子供に自分の価値観を押しつけたり、子供にはできるはずもない完璧を求めた場合。私の患者さんの何人かは、これに加え一見良い母親からの呪縛に苦しんでいます。子供を溺愛するがために、子供と自分との境界が曖昧になり、子供の全ての行動に口を出してしまう場合。「これをしなさい」「こっちが可愛いわよ」「そんな危ないことはしちゃダメよ」反抗できる子供なら良いのですが、親が自分のためにしてくれているのを感じた子供は、親を悲しませないために、自分もそれを求めていたかのように行動してしまうことがあります。私は患者さんの鋭い一言に感嘆したものです。「友達親子は危険なんです。普通の親子なら、親から子供に一方的に何かをすることは普通だけど、友達だと親も子供に見返りを求めるんです。友達なら、してあげた分、してもらって当然でしょう?」そして、そんな育ち方をしてきた人たちは、自分と他者との境界線が曖昧です。自分の周囲の人間が不機嫌になったり、傷ついた様子を見せると、自分が罪を犯したかのように感じてしまう。自分が責任を取らなければならないように思ってしまう。自分の感情よりも、他者の感情を優先してしまう。自分の考えが固定せず、周囲の意見に流されてしまう。その結果、人を心から信用することができない。リラックスして、人と打ち解けることができない。自分を理解してくれる人などいるわけがないと感じてしまう。いつか捨てられるんじゃないか、人は自分から離れていくと感じてしまう。自分が本当に愛されるはずがない、自分が相手に合わせる以外、自分が受け容れられることはないと思ってしまう。そんな風に、多分本人が望んだり、選択した訳でもない価値観や、人に対する対応の仕方がいつの間にか身についてしまうのです。でも、これは単なる習慣です。きちんと意識して、新しい習慣を身につける練習を繰り返せば、必ず変えることができます。人生は魂の研修会のようなものです。身につけるべきものを身につけないと、修了証はもらえません。大事なことを身につけるために必要なのは、「耐えること」ではなく正しい「練習」です。何が正しい対応の仕方なのかをきちんと勉強し、せっせと練習しましょう。自分には出来ないなんて弱音を吐くのは、練習を沢山してからです。でも、実はこの練習、それほど辛くはありません。ただ慣れないから難しく感じるだけです。いままでの苦しさに比べたら、へのつっぱりにもなりませんよ。この本を読めば問題が解決できるというわけにはいかないかもしれません。でも、生きることが辛いと感じている方や、理不尽な病気で苦しんでいる方、私が最近書き続けている強迫性障害やパニック障害に苦しんでおられる方にも、是非一度この本を読んでみて欲しいと思います。そしてできれば、私に感想を聞かせてください。
0コメント