自分で決める
人の前に出ると言いたいことが言えなくて、後で悔しい思いをするとか、この人の前に出ると何も出来なくなるとか、そんな風に感じることはありませんか?
自分の行動や発言は、常に自分が主体であるべきです。他者に流されてしまうと、自分もつらいし、自分の行動に自分で責任が持てなくなります。
「もっとはっきりものが言える人になりたい」「ガツンと言ってやろうかと思うんだけど、喧嘩になると思って、いつも自分が我慢している」
そんな風に思っている人は、「はっきり言える人が羨ましい」「自分も本当のことを言えたらどんなにすっきりするだろう」そう感じているかもしれません。
でも本当にそうでしょうか?私はそんな人は、やっぱり言わないほうが良いから言わないんじゃないかと思うんです。
人は自分の生き方を、常に自分で選択しています。言わない人は、実は自分の意志で言わないことを選択しているんです。
映画やドラマでは、おとなしい登場人物が自信を取り戻して、意地悪な相手をぎゃふんと言わせるようなシーンを痛快に見せますが、現実は全く違った結果を生むでしょう。
たぶん、本当のことを口にしてしまったら、別に相手を攻撃するようなことではなくても、言った後にうじうじ悩んで後悔するに違いありません。
はっきりとものを言えば、それなりのリスクも伴います。相手を不愉快にさせるかもしれないし、大きなことを言ってしまえば、自分でも実行しなければなりません。
言いたいことを言う人になるには、それ相応の覚悟が必要です。人にはキャラというものがあって、それに合っていないことをすれば、いろんな意味で大抵痛いです。自分らしくあるべきだと思うんです。
そんな自分を変えたい。弱い自分を脱皮したいと考える人は、行動を変えるのではなく、自分の考え方を変えることをお勧めします。
例えば、攻撃的な人を前にして、「それは違うだろう」と思ったけれども、言ったらまず喧嘩になるような状況に立たされたとします。多くの人は何も言わず、適当に相手に合わせて、その場をやり過ごすのではないでしょうか?
その対応は正しいんです。言ってもしょうがない相手には、言えば相手を助長させるだけで、ますます不愉快になるのが関の山です。
ここでどう考えるか。
人によっては、「また言えなかった。自分は我慢しているばかりだ」と思うかもしれない。こう考えてしまうと、相手に言わせてもらえなかったように感じてしまい、自分の行動を常に相手にコントロールされていると思ってしまいます。
別の人は、「こいつに何を言っても仕方がない。こんな考え方しかできなければ、最終的に損をするのは本人なんだから、勝手にさせておこう。ここで言い争って、自分が巻き込まれるのはあほらしい」と考えるでしょう。この場合は、自分が主体になって行動しているわけですから、ストレスもさほど感じません。
表に現れる行動は同じでも、前者はひどくストレスが溜まり、正しい選択をしたにもかかわらず、言えなかった自分を責めることにもなりかねない。
でも後者であれば、自分の言動をちゃんと自分でコントロールできているので、状況を正しく認識できます。そうでなければいけないんです。
我慢しているわけではなくて、「言わないことを自分で選択したのだ」その事実をちゃんと自覚すると、気持ちはぐっと楽になります。
多くの場合、自分がそのときにできる最善の選択をしています。他の人間であれば、別の選択ができたかもしれないけれど、私たちは他の人間にはなれません。
私は本当のことをすぐに言ってしまいます。すごくはっきりしている。自分が納得できない話に同意することはまずありません。でも、相手のことをは受け容れます。
意見が違ったからといって、その人を拒絶することはしません。だから、言えるんじゃないかと、自分では思っています。
普通の人からしたら、言いにくいようなこと、例えば、「あなたが上司から攻撃されるのは、あなたが相手を攻撃しているからだ」というようなことを伝えようとした場合、「私はあなたのその正義感は素敵だと思うし、そんな生き方も私は好きだけど、私があなたの上司なら嫌かも」「私が上司の立場ならムカつくかも」とか、そんな風に伝えます。
どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、相手の態度にも理由があって、それはこちら側からの視線とは違うところを見ているんだよと、それに気付いてもらう。間違いを指摘しても、あまり良いことはありません。
本当のことをいくら正確に伝えたつもりでも、なかなか真意は伝わりません。相手に、自分の気持ちを正しく伝えるためには、それなりの修行が必要なのです。
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