誰かに苦しめられている人へ。
人の気持ちを変えることは出来ません。でも私たちは無意識のうちに、人の心が、自分の望むように変わることを願ってしまいます。
多くの人が、人付き合いをするときに、自分のことを相手がどう思うかを気にしていますよね。
私のことを好きになって欲しい。認めて欲しい、信じて欲しい。私の意見に感心して欲しい。そう思ってしまうのが人情というものです。
相手を許せない気持ちが募ると、相手を痛めつけたくなりますが、それが、自分を痛めつける方向に働いてしまうことが多々あるのです。
自分が苦しむことで、相手への恨みは一層深まります。自分の苦しみが、相手の罪の重さの証明になるのです。
一度そうなってしまうと、自分の苦しみから逃れることはできません。相手を責めれば責めるほど、苦しみは増すのです。
自分の苦しみが軽くなれば、相手の罪まで軽くなってしまうように感じられるので、楽になるのが嫌なのです。
あなたのせいで私はこんなに苦しんでいる。あなたは私に、こんなにひどいことをしている。そんな心の叫びは、でも相手には決して届きません。
人は誰でも、無意識のうちに自分を正当化してしまうものです。私など、自分を正当化することにかけては達人級なので良くわかります。
私は時々患者さんにこんな話をします。「嫌いな人のことは、自分の中で嫌いって認めたほうが良いよ」
善良な人は、人を嫌いになってはいけないと考えがちです。でも、本当は好きになれない人なのに、好きになろうと無理していると、その人のことで、不愉快な気持ちになったときなど、相手の悪いところをあげつらいたくなります。
私が不愉快になったのは、自分の心が狭いせいではない。あの人は、あの時もこんなことをしたし、今回もこんな風に思っているに違いないし、他の人もこんな風に言っていたし…。自分の気持ちを正当化するために、相手が悪い証拠を必要以上に並べ立てたくなります。
今回のこととは何の関係もない過去の出来事や、自分サイドの一方的な思い込みでしかないことなども、自分が不愉快になった正当な理由として上げることになるでしょう。
でも自分が相手の立場なら、「なぜ怒ってるのか意味わからん」となるかもしれません。そんなのは言いがかりだと。
実際、同じことを自分の信頼している人がしたら、まったく気にならない、なんてことで怒っている場合も多いんです。
話を戻すと、自分を苦しめているのは、相手ではなく自分自身かも知れない、そこに気がついて欲しいのです。
特に少なからず愛情のある相手、自分のことを認めて欲しい人に気持ちをわかってもらえないと、一層相手を恨みたくなるものです。自分にとってどうでもいい相手なら、その人からどう思われようと気にしませんから、恨む事もありません。
もしその相手が家族や恋人なら、自分を愛してくれるのが当然、愛さないのは相手の罪だと感じてしまうのではないでしょうか。
確かに、親が子供をきちんと愛せないのは罪なことです。責められて当然のことだと思います。少なくとも、子供がそう感じるのは100%正当なことで、子どもの側が責められることがあってはなりません。
でもやはり、上手に子供を愛せない親は沢山いて、その親自体が、そのまた親に愛されなかった可能性も高いのです。そんな親には、自分で変わることが出来なかった罪はあるけれど、やむを得なかった事情もあります。
0コメント