人の価値観
人間の価値観は多様です。私はよく冗談で、自分の前世はインド人で、路上で行き倒れ、蛆虫が湧いているような状態のところを、マザーテレサに助けられたんじゃないか。マザーのところで、生まれて初めて人として大切にされ、幸せな気持ちで死んだに違いないなどと話します。
その理由は、マザーを深く尊敬していることと、現世では、あまり苦労せずに大切なメッセージを受け取れているような気がするからです。これはたぶん、前世で厳しい修行をし、徳を積んだに違いないと言うわけです。
そんな話をしていたある日、私は自分のある価値観に気がつきました。
私は、インドの行き倒れは、当然のように魂の徳が高い人だと感じているんですね。
彼ら自身には何の罪もないのに、私たちには想像もできないような、理不尽な体験をしている。それでも、彼らの心は、物質的に恵まれた私たちよりも澄んでいるように思えるのです。
障害のある人についても、彼らは魂の徳が高い人だから、障害という厳しい修行に挑み、自分の人生だけではなく、他者に何かを伝える役割を持った人たちなのだと思っていますし、
そんな障害児の親は、障害を持った子供が、あの親の子供として生まれたい。あの人なら障害を持っている子供をきちんと支えてくれる人だと感じて、天上界から、その親を選んで生まれてくるのではないかと思うのです。
当然、親自身の魂の課題も、高いところにあるはずです。
幼くして亡くなる子供の親御さんについても、同じことを思います。短い人生だから、せめて幸せに過ごしたい。あの親なら叶えてくれる。そう信じて、命の短い子供は親を選ぶのではないでしょうか。
私にとっては自然な考えですが、逆に考える人も沢山いそうです。
インドの行き倒れや障害者は、前世に悪いことをした罰を受けている。あるいは先祖や親の因果応報で、報いを受けているのだ。何となく、そんな風に感じている(信じている?)人もいるでしょう。
私が障害のある人に対して尊敬の念を持っているのは、障害がありながらもきちんと生きている。そんな人たちに直接触れたことがあり、自分の実感として、彼らの魂の高さを知っているからです。
別の見方をすれば、恵まれた環境にいる人たちの魂が、必ずしも高潔とは言えないことを、みなさんもよーく知っていますよね。
家柄や、頭の良さや、肉体の強さではなく、魂、あるいは心の有り様にこそ、人間の最大の価値があると私は思うのです。
病気や怪我をして初めて知ること、挫折や失敗を経て得るものは、人間として成長するために必要な経験です。
私は、聖人君子のように完璧な人や、挫折を知らない強い人間より、弱さや悲しみを知っている人の方が、かっこいいんじゃないかと思います。
だから、うつや強迫性障害などで苦しんでいる人に、こんな風に話した事がありました。
「何も出来なくなった今の自分と、優等生で何でも出来た過去の自分とを比べて、現在の自分を否定しているかもしれないけど、努力しない人間をバカにしていた頃の自分と、人の弱さや、頑張ろうにもがんばれないこともある、がんばれることこそ恵まれていたんだってことを知った今の自分と、どっちがかっこいい大人だと思う?」
絶対的に正しい価値観など存在しませんから、その基準は個人で違って当然です。
でも個人の価値観は、その人の人生に多大な影響を与えてしまいます。時には自分を苦しめる要因にもなります。
そんなときは、自分とは違った価値観を持つ人もいて、自分の価値観が絶対的に正しいわけじゃなくて、今までの価値観を手放すことは、自分をだめにすることばかりではなく、自分の成長につながることもある。
そんなことにも気がついて欲しいなと思います。
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