偽善者になろう
「偽善者」という言葉は不思議な使われ方をする。
明らかに悪い奴が、良い人の振りをしている、例えば詐欺師などの場合には使われず、私が見たところ、本当にいい人だとしか思えないような、真面目な人に対して使われることが多いように感じるのです。
もしかして偽善者の「偽」は、検査結果の「ぎ陽性」見たいな感じで使われているのか?善人の疑いあり?ってそれは「疑陽性」。字が違いますね。
誰かのことを、「あの人は偽善者だ」などと言って嫌悪したり、その良い行ないを見ても、良いことだと認めない人にとっては、「偽」の付かない、本物の「善者」など存在しないのではないでしょうか。
私は、仮に偽善的であったとしても、何もしない人よりは、何らかの良い行いをする人のほうがずっと立派だと思うし、それを伝え聞いた人が、その行いを非難するなんて、その意義がわかりません。と言いながら、実は少しわかるんです。
私の思うに、人を「偽善者だ」と攻撃せざるを得ない人たちには、その人たちの言うところの「偽善者」は、(何か行動を起こしているので)少なくとも自分よりは「善者」であることを知っていて、自分も本当は何かやらなくてはいけないのに、何もできていないという事実に罪悪感のようなものを持っているのではないでしょうか。
だから、人が良い行いをしたなどという話を聴くと、自分が何もしていないことを責められているような気がして、相手を攻撃し返したり(攻撃されてないけど)、自分の正当性を証明しようと言い訳してしまうのではないでしょうか。おかしいのは相手で、私ではないと。
自分を正当化するための言い訳は、脳に組み込まれた機能の一部であり、潜在意識の正常な働きなので、容易に止めることはできません。(この話はまた別のところで)
そうでなければ、少なくとも一般的に見たら正しい行いをしている人を、攻撃する理由などありませんよね。
それに私的には、正しい行いをすることが大事なのであって、その人が善人かどうかなんて、それほど重要なことではありません。
評価されるのは行いであって、心の中でどう考えているかではないと思うのです。
身近な例を挙げると、
①電車で寝ていたところ、目が覚めたら自分の前にお年寄りが立っていた。本当の私は、お年寄りには席を譲りたいと常々思っているのだが、今日はタイミングを逸してしまった。仕方ないので寝た振りをした。でも本当は私は席を譲る人なのだ。
②同じ状況に立たされた別人が、心の中では、「ちえっ、ついてないな、年寄りかよ。こっちだって疲れてるのに冗談じゃねーよ」そう思いながらも、仕方なく席を譲った。
①と②どちらが評価されるべきでしょうか?
現実問題として、②は席を譲る人で、①は譲らない人なのです。
お年寄りに対して親切な人は②です。それ以外の事実はありません。行動しなければ、どんなに正しい心を持っていても、意味がないし、人にもわかってもらえません。
だからといって、正しい心を持ってはいるけれど、行動できない人が悪い人なわけでもありません。それが普通だし、それでいいのです。(私もそうですし)
私が言いたいことは、正しい行いをする人をわざわざ非難する必要はないってことです。
一部の人は、ボランティアなどの慈善的な行為は、本当に正しい人や、完璧な善人でなければしてはいけないと感じているようですが、もちろんそんなことはありません。誰だって、良いことをしたら気持ちがいいし、自分のできる範囲のことだけをすればいいと思うんです。
それほど善人ではなくても、正しい行いをする人は、やはり褒められていいのです。
善人だから評価されるのではなく、正しい行いこそが評価されるのであって、何もしない人は文句を言う権利はありません。
ですから本物の「偽善者」の方々も、自分は偽善者だなんて卑下したり,何も悪いことをしていないのに後ろめたい気分になったり、人から中傷されて傷ついたりする必要はありません。
「私は善者ではないけど、自分が正しいと思うことをしてるもんね。何もしない人に勝手なことを言われる筋合いなんかないもんね」と堂々としていてください。
私に言わせれば、あなたはかっこいいのです。私はそんなあなたたちを、断固支持させていただきます。
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