人を信じるということ
患者さんと話をしていると、いろいろな発見があります。最近、人間関係を考える上で、とても重要なことに気がつきました。根本的に「人を信じているかどうか」ということについてです。言い換えれば、信じられる人を対象に自分の言動を決めるか、人を疑って自分の言動を決めるかということになります。先日、私は二人の患者さんに、「人を信じてないでしょう?もう少し、相手を信じてみたらどう?」なんて、失礼なことを言ってしまいました。もちろん、二人とも納得してました。たぶん。どんなシチュエーションだったかというと、一人の方は、仕事で人を使う立場にあり、スタッフの交代が激しいので、スタッフと接するときはつい、「こんなこと言ったら辞めちゃうかな?」「辞められたら困るから、これは言わないでおこう」などと、辞められないことを前提に、言うかどうかを考えてしまうということでした。もう一人の方は、自分の時間をつくるために仕事を辞めるのに、本当の理由を言えば無責任とか、だらしないとか思われるだろうから、周囲の人たちに嘘の理由を言ったとのこと。これに対して私は、「私だったら本当のこと言うな。だって自分だったら本当のことを言われても、仕事を辞めたりしないし(自分の時間を大切にするために仕事を変えるのをだらしないとか思わないし)そんな理由で本当のことを言はないのは、相手をだらしない人間と決めてかかっているようで、相手の人に失礼なんじゃないですか?」そんな感じです。自分の言動を、どんな人たちを対象に決めるのか? これは人生の中で、なかなかに大きな問題です。ある人は、「人は物事を悪く受け取る可能性がある。だから悪く受け取られないように細心の注意を払う必要がある」そう考えて、「自分がどうしたいか」「自分は何を正しいと考えるか」といった気持ちよりも、他人に誤解されたり、攻撃されたりしないことを優先させ、自分の言動をコントロールしているのです。これでは、自分が本当にしたいことなどできませんし、いつもごまかしてばかりいると、人が本当はどう対応するのかを見極めることも出来ず、悪い体験ばかりが積み上がってしまいます。相手の立場でいえば、なんの言われもなく、自分では考えたこともないような罪の未遂犯に仕立て上げられているのです。別の人は、基本的に人間を信じているので、「たいがいの人は話せばわかってもらえるものだ、わざわざ悪意では取らない」と思って、自分のやりたいことをして、話したいことを話します。これは人に対して配慮がないとか、自分勝手なわけではなくて、ごく自然な本来的な行為だと思います。むやみに人を信じてしまえば、詐欺などの痛い目に遭うかもしれませんが、ここでお話しする人を信じることの意味は、特定の人を見て、「この人が信じられるか?」とか、「性善説に基づいて人を疑ってはいけない」などといった話ではありません。現に私自身も人を信じていますが、自己啓発セミナーやマルチ商法のセールスマンに、乗せられないどころか、だまそうとしていた相手が本音を晒して仲間に引き込もうとするほど胡散臭い人間です。ですから、人を信じるためには、他人をだまそうとする人や、何事も悪意を持って解釈する人や、人を攻撃するのが生き甲斐のような人が存在することも、ちゃんとわかっている必要があります。でもそれはごく一部の人であって、みんながそうではないということを理解し、目の前にいる相手を、自分の思い込みや先入観を持たず、冷静にきちんと見ることです。詐欺師に本当のことを話す必要はないし、敵意をむき出しにしている相手には、本音でぶつかるより、無難に対応する方が良いに決まってます。それ以外のそこそこ信用できそうな人には、なるべく誠実に対応することです。自分が誠実なら、相手に悪く取られる可能性はぐっと減るし、誤解されてもフォローすればいいんです。「こう思われたくない」を基準に行動するのは人生の無駄です。いつもそんな行動をしてしまう人は、もう少し人を信じて、「自分がこうありたい」を基準に行動することをお奨めします。
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